日記まがい

変わったことがあれば書きます

2019年7月21日「ランナーズハイは嘘だと思ってるけども」

高校のとき、みんな持久走を嫌っていたように思う。

時期は冬。小高い山の上で走ると、次第に喉の奥から血の味がにじんでくる。なんでこんなことしてるんだと考え始めると止まらなくなり、ゴールが遠く、遠く、遠くなる。

ちゃんと走らないと、不足分を取り立てられて、放課後走らされる地獄に連れていかれるので、みんなどうにか走る方法を探すのだけど、そういう精神的な部分での弱さというのは私の右に出るものなどおらず、結局毎回グズグズになりながらゴールしていた。

まあ、実際にうまくいったわけではないけども、毎回そんなことばかり考えていたので上手くやり過ごす方法の片鱗ぐらいはつかんでいる。

走る理由を探したとたんに疲れていき、自分が疲れていることを認識すると体が硬くなる。そうして倍々ゲームで体が重くなるのである。「今、俺は走っている」などと思わなければいいのである。事実、つらくなるタイミングというのはいつも考え始めた時だった。

 

人生に例えられる。

なぜ生きるのだろうと思ったとたんに日常の一つ一つに重みが増していき、次第に息切れを起こしてしまう。やめてしまおうかと考えてしまう人も現れる。

 

人間というのは生きようと思って生きておらず、なぜ生きているのだと聞かれれば「まだ死んだことがないからだ」と答えるしかないし、「なぜ」が「何を求めて」だとすると口をつぐむしかない。

これはある種当然であり、生きるということは「のどが渇いてお茶を買いに行く」のような目的→実行の性質を持っておらず、実行だけが先にあるものだから、多くの人間は何かのために生きたりしていないのだ。

何のために生きるのかという質問は人生を行動と混同していて、そもそも事前に考えて答えを用意していない限り答えようもない質問であり、悩むのは当然である。

そうしてひとたび生きることの理由を考え始めると、次第に自分が生きていることを実感してしまうのだ。そうすると日々がつらくなる。

 

(ここから先、みんな死にたくないと思っているという仮定の上で話を進めていく)

無意識に生きていた人が、何かのきっかけで自分がずっと継続的に生きつづけていることを知った結果、これから先、生きるかどうかという選択肢が生まれてくる。

放っておくと天秤がどんどん傾いていく。生きる辛さが死ぬ辛さに追いつきそうになる。

それで、「生きる」を選ぶためには暫定的にでも「生きる意味」を用意しなくてはならないのだけど、スポーツなり音楽なり、一つのことにすがりすぎると危ないし、それが受け手としての活動のみであるとしたら、それはあまりにも不安定だということは最近痛いほどに感じるばかりである。

だから、いろんなことに生きがいを見出すというのはすごく合理的で健康だなと思う。趣味をたくさん持って新しいことにどんどん挑戦できる人は強いなあと思う。こういう風になってもいいなと。

 

一方で、生きる意味を求めるのをやめてしまうというのが私に適しているような気がする。もちろん死にたいというわけではない。自然状態で生きていると認識して、それ以上考えるのをやめるのだ。

生きるというのは意識してやるようなものじゃないのだと開き直って、そういう価値観の外を走る。走ろうと思って走るのではなく、終わった後に「移動」という結果だけが残されているような感覚を理想とする。

 

世の中は、生きがいに足るような喜びであふれている。しかし、それを生きがいとして認識し始めるともはやそれは体験ではなく「服用」だ。

「面白かった」が「これで今日も生きていけるわ」にすり替わってしまうと、それは喜びとは別の感情のような気がする。