日記まがい

変わったことがあれば書きます

2019年7月24日「『残像に口紅を』を読んで」

 

残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)

 

 

読んだ。

世界から「あ」「ぱ」……といったような音が1つずつ消えていく中で、一人の作家が歩き、食べ、書き、講演し、情交までもやる。

「ぱ」が無くなるとこの世界からパンは消え失せ、それが香ばしく、柔らかだったという記憶だけがうっすらと残像として残る。戸惑い、切なさを覚えながらも日々を過ごすのは、その世界を支配する作家であり、あるいは虚構の中の人間だからである。

最初に「あ」が無くなることで、朝や雨に加えて「である」がこの世界から消える。描写に軽みが増していき、シンプルな文体が生まれる驚き。

もはや半分近くの文字がなくなったところで、ラブシーンが意図的に挿入される。残された文字を組み合わせ、しかしその上で「読む者に劣情を催させる」ほどの性描写を行うという言葉遊びの極限。

 

印象的なシーンは様々だが、屈指の名シーンは自伝の部分だと思う。

「父」も「母」も作れなくなり、「男親」「女親」と苦しそうにしながら、これまで語ってこなかった部分をも含めた自身の少年時代について描く。これがわかりやすく実験小説であり、これほどにまで不自由でなければ語ることもできなかったと自ら語るほどの過去。

あからさまに言葉の足りなさを強調する部分もあるのだが、しかし絶対に「らしい文体」を崩さず、もはやなんの文字が使えないのか感じられないほどにすらすらつづられ、共感や同情すら巻き起こす圧倒的な語彙力とIQに、読者はただドン引きするしかないのだ。

本当に凄すぎて引く。もはや20音ぐらいしか残っていない世界になってもなお、「片言で喋らない」のである。意味のある文章を自然な形で連ねてしまう!

 

というふうに、作者を褒める形になるのだけど、全然性質の違う他の作品でさえそうしてしまう自分に辟易する。

もっと印象的なシーンについて語るべきだと思いながらも、全然覚えていなかったりする。

そういうわけで「そもそも書き方が面白い」小説以外への興味が薄いかもしれないな。

実験小説はイギリスとかフランスとかに多く、翻訳できない作品もたくさんあるようで、今の自分の興味から言えば英文学、仏文学について学びたくなっているのだけども、日本文学を専攻した自分の過去はもはや変更できず、自学自習を余儀なくされている。

仕方なく古典の名作を読み、それなりに感動するのだけど、感想を文字に起こそうとすると戸惑うのである。で、どう書かれているかにばかり注目する。悪だ。

 

なんとなく最近思っていたのだけど、小説を読んだり映画を見たりするとき、「作者が存在する」という視点が純粋な感動を邪魔しているのではないか。

Twitterを見ていると、登場人物のやりとりそのものよりも「それを描いた代表者」に対して批評の矛先が向かうことがある。時にその人の過去までほじくられる。作品はどこにあるのだ?

愛とか別離とかいろんな出来事を登場人物それぞれについて語った上ではじめて、作者を引っ張り出す人の方が好ましく感じる。

しかしまず作画について語り、構造について語るオタクは跋扈するのである。やっぱり俯瞰して見ていると主張した方が詳しく見えるからだろうか。

さらにそう語る一方で、私も無意識にメタな褒め方ばかりするのである。私は悪いオタクだ。その上オタクを誇れるほどの知識もない。

 

一方この作品は初めから曲芸であり、もはや「筒井康隆」の存在を無視しては読むことができない。作者を褒める以外どうしようもないのだから恐ろしい。

オタクにとって実験的作品というのは非常に優しく、成し遂げた作者を褒めると、同時に自分も何か偉業を成し遂げた人間かのように錯覚してしまう性質を持つ。「残像に口紅を」は人の作ったものを自慢げに見せびらかすオタクにとって最高の作品なのかもしれない。

 

 

 

2019年7月22日「縁起も良い」

詳細は忘れたが、ホースの強い水圧で体ほどもある巨大な桃を真っ二つにする夢を見た。

すごい楽しくて、できればもう一度見たいような夢をよく見る。起きるとゲームを途中で取り上げられた気分になる。

深層心理が夢に出るのだとしたら、私は本当に楽しい奴だなと思う。あるいは夢で桃でも切らないとやってけないほど追い詰められているのか?

寝ている間に見る夢が面白すぎて、起きたくない日も多々ある。二度寝していい夢が見れたことはないけど、起きて学校行くより夢の中の方が100倍楽しいのだ。

 

三週間先のシフトを決めないといけないのに、大学公式サイトの年間行事予定表は曜日も日にちも春からずっとグズグズだったりする。

最高峰の頭脳集まってへんやんけと思う。

予定をちゃんと覚えてない自分が悪い部分もあるのだけども……。

 

2019年7月21日「ランナーズハイは嘘だと思ってるけども」

高校のとき、みんな持久走を嫌っていたように思う。

時期は冬。小高い山の上で走ると、次第に喉の奥から血の味がにじんでくる。なんでこんなことしてるんだと考え始めると止まらなくなり、ゴールが遠く、遠く、遠くなる。

ちゃんと走らないと、不足分を取り立てられて、放課後走らされる地獄に連れていかれるので、みんなどうにか走る方法を探すのだけど、そういう精神的な部分での弱さというのは私の右に出るものなどおらず、結局毎回グズグズになりながらゴールしていた。

まあ、実際にうまくいったわけではないけども、毎回そんなことばかり考えていたので上手くやり過ごす方法の片鱗ぐらいはつかんでいる。

走る理由を探したとたんに疲れていき、自分が疲れていることを認識すると体が硬くなる。そうして倍々ゲームで体が重くなるのである。「今、俺は走っている」などと思わなければいいのである。事実、つらくなるタイミングというのはいつも考え始めた時だった。

 

人生に例えられる。

なぜ生きるのだろうと思ったとたんに日常の一つ一つに重みが増していき、次第に息切れを起こしてしまう。やめてしまおうかと考えてしまう人も現れる。

 

人間というのは生きようと思って生きておらず、なぜ生きているのだと聞かれれば「まだ死んだことがないからだ」と答えるしかないし、「なぜ」が「何を求めて」だとすると口をつぐむしかない。

これはある種当然であり、生きるということは「のどが渇いてお茶を買いに行く」のような目的→実行の性質を持っておらず、実行だけが先にあるものだから、多くの人間は何かのために生きたりしていないのだ。

何のために生きるのかという質問は人生を行動と混同していて、そもそも事前に考えて答えを用意していない限り答えようもない質問であり、悩むのは当然である。

そうしてひとたび生きることの理由を考え始めると、次第に自分が生きていることを実感してしまうのだ。そうすると日々がつらくなる。

 

(ここから先、みんな死にたくないと思っているという仮定の上で話を進めていく)

無意識に生きていた人が、何かのきっかけで自分がずっと継続的に生きつづけていることを知った結果、これから先、生きるかどうかという選択肢が生まれてくる。

放っておくと天秤がどんどん傾いていく。生きる辛さが死ぬ辛さに追いつきそうになる。

それで、「生きる」を選ぶためには暫定的にでも「生きる意味」を用意しなくてはならないのだけど、スポーツなり音楽なり、一つのことにすがりすぎると危ないし、それが受け手としての活動のみであるとしたら、それはあまりにも不安定だということは最近痛いほどに感じるばかりである。

だから、いろんなことに生きがいを見出すというのはすごく合理的で健康だなと思う。趣味をたくさん持って新しいことにどんどん挑戦できる人は強いなあと思う。こういう風になってもいいなと。

 

一方で、生きる意味を求めるのをやめてしまうというのが私に適しているような気がする。もちろん死にたいというわけではない。自然状態で生きていると認識して、それ以上考えるのをやめるのだ。

生きるというのは意識してやるようなものじゃないのだと開き直って、そういう価値観の外を走る。走ろうと思って走るのではなく、終わった後に「移動」という結果だけが残されているような感覚を理想とする。

 

世の中は、生きがいに足るような喜びであふれている。しかし、それを生きがいとして認識し始めるともはやそれは体験ではなく「服用」だ。

「面白かった」が「これで今日も生きていけるわ」にすり替わってしまうと、それは喜びとは別の感情のような気がする。

 

 

 

 

 

2019年7月20日「マニフェスト不履行」

昨日「早めに寝てテストに備えよう」といったにもかかわらず昼過ぎまで寝て、結局飯も食わずにバイトに行き、ヘロヘロになりながらバイトにをした。

閉店までのシフトというのは仕事が全部終わると終了なので、そんなヘロヘロな私では効率よく働けるわけもなく、帰ったのは閉店時間の1時間半も後である。

もう何も考えたくないな。寝ます。

寝ま〜〜〜す。

2019年7月18日「surface使ってるしせっかくだからレイヤー機能とかがあるペイントソフト使いたい」

引っ越しのとき、もしかしたら読むかもしれないなと思って、教科書とか資料集とかを段ボールに詰めた。

最近間違えて身長ぐらいある本棚を買ったので、漫画とか小説だけではあまりにも余裕がありすぎる。

少しでも隙間を埋めるために教科書類も使おうと、一年と少しぶりにガムテープをはがした。

……ああ、そうだ。姉の持っていたドイツ語の参考書や、デザイン・芸術の本などを段ボールに忍ばせておいたのだった。

すっかり忘れていた。どうして入れた?

 

今日び、絵の一つでも描けないといろんな面で不利だろうなと思っていたんだったか。

漫画とかイラストとかでないと伝えきれないこともあると思ったりした覚えがある。

絵がうまいだけでよく見ると大したこと言ってない映画の紹介ツイートとかがウケてるのを見てスケベ心が働いたりしたのかもしれない。

(そんなにうまいこと行かないというのは、最近何となく理解してきたが)

 

せっかくだからデッサンの本でも読みながらいっちょ練習していきますかい。と思って開いてみる。しかし……。

やっぱり、一朝一夕で身につく技術でもあるまいなと、しみじみと思った次第です。

 

こういう能力、本を読むだけで次の日には身についてればいいのにな、みたいな意志に支配されている。

そういうの良くないよ、と理性にどうにか言わせているのだけど、何度線を引きなおしても見た通りにならないことに爆発しそうになる。

この、下手なうちの辛さを乗り越えられるものだけが絵ウマ村への切符を手に入れられるのだ。

自分が下手なことに気づく前に、いくらでも時間をかけて絵をかきまくる時間があればよかった?

能力とか需要とか、考えはじめる前にたくさんやることで下手さへの怒りを飛び越えて特技が生まれる。

 

あるいはそれを才能と呼ぶのか。

才能がないと言って絶望するときというのは、需要を満たすだけの能力がなく、それを克服しようにも努力がなかなか実らないときだ。

下手なことへの怒りが小さかったり、怒りを努力の方向へ向けることができるなど、絶望しにくいことを才能と定義できるだろう。

一方で、絶望とかと無縁の空間で鍛え上げることで生まれる才能もあると思われる。

小さいときとか本業の外で夢中でやるなど、だれに見せるでもなく趣味として続けていたりすることで、需要がどうだの基準を持たずにたくさん作品を作れる。

夢中でやるので次第にうまくなる。

誰かに見せたいなと思って活動を始めると、能力の低さに悩む前に上手になっているものだから、その分才能の無さで悩む時期は比較的おそくなる。

その、周りとのタイムラグも才能と呼べる。

 

とりあえずは義務感でやるのをやめよう。当然だけど勝負するにはあまりにも未熟なのだ。

ちょっと気に入らない部分があっても、とりあえず対象の全体像を最後まで時間をかけて描いてみよう。

絵だけの話ではないかもしれないな。