日記まがい

変わったことがあれば書きます

2019年7月17日「虫の日」

夏本番が近づく中で、部屋を片付けようにもやる気が起きず、食事の後の皿を洗いもせずに放っておいたりしつつ、次第に雑然としていく自分の部屋を「きったねえな」と客観視しながら出かけたり寝たりの日々だ。

バイト先でゴキブリが出たりするのを見ると、外では意外と平気ではあるものの、それが部屋の中に突然湧いたりしたらやってられないなと夢想しながらふらふらと家のドアを開けると、黒い影が見えた。

f:id:Gentle_mominoki:20190717221338p:plain

出たよ出たよ。わかってましたよ……。ブラックキャップも半年ぐらい替えてないし効果もきれてるよな。ハイハイ了解で~す。殺虫剤吹きまーす。

そう思ってじりじりと距離を詰めて対象の位置を確認すると

f:id:Gentle_mominoki:20190717221350p:plain

何の虫?!

よくわからないがゴキブリ用の殺虫剤は効きが悪かった。

 

 

次の日ドアを開けると

f:id:Gentle_mominoki:20190717221338p:plain

f:id:Gentle_mominoki:20190717221413p:plain

爬虫類か?!

逃がした。

2019年7月16日「とびだせ勉強クン」

私が通っていたのは極端な進学校ではなかったから、生徒全員が「勉強勉強」しておらず、スポーツが得意な人もいれば絵が得意な人もいるしと言った風にそれぞれに個性があったように思う。

最初はスポーツも芸術も自慢できるほどの能力がなく、肩身の狭い思いをしていたが、入学後すぐの模擬試験の成績が思ったより良かった。

私は「勉強クン」になることにした。

今思えば、周りにはスポーツでも芸術でも勝てないことを意識していたことが勉強においていい結果を生んでいた。

点数が同級生を上回っていた時には「このままでいいぞ」と自分を肯定でき、得意科目で振るわなければ「このままでは取り柄がないぞ」と危機感を持てた。

途中、モチベーションが上がらずに自宅での勉強をサボってしまった時期があったのだけど、その中でも学校では「勉強クン」としてのプライドがあったものだから、社会科クイズの出題役になったりしながら知識の劣化を抑えていられた。そのおかげか、自習時間では劣っていても成績(学内順位ばかり気にしていたが)は高い水準を保持できた。

志望校を決める際に周りより偏差値が高いことを理由に選んでしまうなど、よくない面ももちろんあったけど、自分の役割を自認することでいい結果が生まれるという考え方は今の自分も大切にしている。大切にできているかは別として……。

ただ、勉強クンになったとはいえそれは高校という小さな共同体の中での得意分野であるから、「いっちょ有名大学行ったろかい」と意気揚々と進学すると痛い目を見る。

キャンパス内にいる人は私のような他に取り柄のない勉強クンだけではなく、「全体的に勉強ができる学校」のスポーツクンとか芸術クンとかもいれば、英語クンや日本史クンといったようなさらに細分化された得意分野を持つ人もいるし、大学で高校時代の私みたいな振る舞いをするスーパー勉強クンみたいな人もいるわけで、私の得意分野はあっという間に溶けたのである。

自分の役割を把握するのは大切だけど、「勉強」のようなざっくりとしたくくりで認識していると、やがて自分を上回る人を見つけた時に簡単にアイデンティティが吹き飛んでいく。

「勉強の中でも特に……」「まず勉強。それから……」といった風により細かく自分を分析して、単なる勉強クンから飛び出していかないと危険なようだ。

範囲を広くとればとるほど、上には上がいる。

 

2019年7月14日「NOTE DOWN OR BARN OUT」

バイトが深夜まであると、それが1時までだろうが6時までだろうが疲労感に差がない。

特に立ち仕事の飲食店だと、終わったときにはもう全身がバッキバキになるので、いくら寝ても疲れが取れず、何時間寝ても徹夜したあとみたいな気分になる。

 

寝る前にブログを書くというルールを自分に課しているのだけど、バイト終わりの日とかになると本当に意識がもうろうとしているし、どうにかアイデアをひねり出して書きながら俺は何か悪いことをしたのだろうかみたいな気分になってくる。

昨日もおとといも深夜までバイトがあったので、自分が今何を書いているのかわからないまま書いていた。破綻していないか不安なまま(そんな状態で判断することもできないまま)投稿していたのだけど、寝て起きて振り返っても絶対そういうのやめたほうが良いと思う。

 

やっぱりどういうことを書こうかなということぐらいは日中に考えておいたほうが良いのだろうな。今のところ行き当たりばったりで何とか自分の経験とこじつけてそれっぽく書いているけども、こんな生活が続いていくと何かが焼き切れる。

思いついたことをメモする癖をつけるか、何かを焼き切ってなんにも組み立てずに書き続けるかだな。

2019年7月13日「好きなこと以外で生きていくことをあまりにも嫌悪して生きている」

 

ゲームの企画書(3) 「ゲームする」という行為の本質 (角川新書)

ゲームの企画書(3) 「ゲームする」という行為の本質 (角川新書)

 

 今これを読んでいる。

もちろんこういうインタビューの中ですべてが語られているわけではないので、これを見ただけで進路をエンタメ産業一本に絞り始めたらそれは軽薄すぎるけども、やっぱり自分の興味はこっち側にあるなというか、揺さぶられるものを感じた。

 

飲食店でバイトをしているのだけど、バイトしながらこの本のことを考えていた。そして、あんまり思わないほうが良いことを思った。

(シフトの時間が近づくと気分が落ち込んでいく。)

(ぶつぶつ文句を言いながらも出勤し、言われたことやろうとするが、何度やってもうまくいかない作業があり、そのことで先輩に注意されてまた気分が落ちる。)

(いつまでたってもぎこちなく働いて、業務が終了した時にはへとへとだ。)

(だが、お金をもらうためには仕方ないと思って、どうにか仕事を続けている。)

(つまり、モチベーションもなく、適正もない仕事を続けて自分をすり減らして、その「埋め合わせ」として賃金を受け取っている。罰ゲームみたいなものだ。)

(客のこぼしたスープをはいつくばって拭いて、「ありがとう」と感謝されたりもして、そういう時にはうれしく思うのだが、それはほとんど誰にでもできる仕事であり、ふるっているのは自分の能力というよりは単に「人手」である。)

(誰にでもできるけど誰かがやらないと困る仕事であるというのはわかる。)

(今のところ自分の得意分野でお金を稼ぐ方法も知らないし、とりあえず人手でお金を稼ぐしかないので、できるだけまじめに取り組んでいる。)

(でも、今はアルバイトとして週2,3日働いているだけだけど、この先何十年もほとんど毎日働き続けるのだと考えたとき、様々な働き方が生まれているということを差し引いても、人手でお金を稼ぐ道を選ぶのはしんどいな)

というふうに思ってしまったのだ。

 

バイトリーダーはもう十年以上も働いていて、作業速度が私などとは比べ物にならないほど速い。初めは全然うまくいかなくても続けていくうちに動きが洗練されて、次第に「なくてはならない人材」になっていくということはよくあることのようだし、多くの業種においてその成長を見越した採用をしていて、即戦力しかとらない企業というのはあんまりないように思う。

そういうわけで、好きな仕事じゃなくても最初に適性がなくても、熱心に続けていれば次第に力がついてくるはずだし、意外と隠れた才能が見つかるかもしれないし、その先に面白さが見えてくることだってあるのだ。

でも、一度「自分の天職は別にある」と思ってしまったら、最初上手くいかないだけでどんどんやる気を失ってしまうのである。自分の才能とかセンスとかを最初の数か月で見極めたつもりになってしまうし、世の中のほとんどすべての作業には「熟練」という概念があることを忘れてしまう。

本を読んでゲーム業界にあこがれを持った私は、今すごく不安定である。

2年生で良かったと切に思う。直そう。

 

 

 

2019年7月12日「令和にもなってハルヒダンス踊れますか」

 

 私がちょうどネット文化に触れるか触れないかのときに涼宮ハルヒのアニメがめちゃくちゃ流行っていた。

ただ、当時は自分で興味を広げていく力が弱かったようで、アニメを見るにしても夕方のポケモンとかケロロ軍曹ぐらいしか見てなかったし、YouTubeとかニコニコ動画では改造ポケモン以外何にも見てなかったし、見ようともしなかったので、結局どういう話なのかすら知らないまま時が過ぎてしまった。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

 

角川文庫からおしゃれな表紙の文庫版が発売されたので、これを機にいっちょ教養として読んでみるかと思ってとりあえず買ってみた。買ってよかった……。

 

今更内容のすごさを語っても何にもならないことだけが悔しい。1か月に2巻づつ発売されていたので、次はどんな話なんだろうと無邪気に空想して発売日を待ち遠しく思っていたのだけど、そんな私をしり目にウィキペディアも考察サイトも何年も前に完成されているのだ。(意地でも見ないようにしていた)

ほかのみんなは私よりずっと純粋な形で次の話を待っていたのだろうし、発売のたびに感想を言い合ったのだろう。良いなー……。

 

絶対すごい話題になってるもんだと思って発売日当日に近くの本屋に行ってみたのだけど、涼宮の「す」の字もなかった。結局ほとんどアマゾンで揃えることになった。この辺りに世間とのギャップを感じて寂しい。言わば再放送のようなものだし、みんなそんなに焦ってなかったのだ。

文庫化とかDVD化とかリメイクとかを待ってしまうのはやめておいた方が良いなと思った。見たいと思ったらすぐ飛びついた方が得なのだな、と。登場した瞬間の周囲の熱量ごと楽しんだほうが良い作品はたくさんあったし、これからも生まれていくのだろう。次のそれは見逃さないようにしよう。

たとえば「劇場で見るべき」みたいな情報を見たら、そういうのに疑問を持ったりせずに見に行ってしまえばいいのだ。実際劇場で見るように作られてるのだから見に行くのが一番面白い。見るか見ないかの判断は極めて雑でいい。

 

ただ、それにしてもハルヒシリーズみたいな爆発の仕方をする作品はなかなかお目にかかれるものではないのだろうなと思う。惜しいことをした。

周りから何年も遅れて読んでいることを差し引いても面白いのだけど、差し引くものが無いなら無いほうがいいのは当然である。

この悔しさを胸に…...。

2019年7月11日「同じ穴」

 知り合いの書いているブログが社会問題を取り上げようとしているのだけど、どうも視点に意外性がない。

 どこかで聞いたような話をそのまま書き写していたり、最終的に「一つの視点に縛られないことが大事なのだ」みたいなことを書いていたりして、それを見てどうするのだと思う。

 もちろん最近勉強していることのメモのようなブログであるならば少しづつ充実していけばいいのだと思うのだけど、どうも宣伝の仕方が「新たな視点を提供したるさかいに……」みたいな態度なものだからこいつマジで言ってんのかみたいな気分になっている。

 

 ただ、そういうのを悪く言っている人ばかりを見てきたせいでそういう視点が生まれているのだろうなと自認するところもあって、彼をはじめとしてそういう人たちはNAVERまとめをソースにするのに躊躇がないし、元の撮影者に許可など取れていないであろう孫引き、ひ孫引きのおもしろ動画まとめもどんどんリツイートする。

 そういうのに嫌悪感があるのは自分では内なる正義の働きかのように思っていたのだけど、実際はそういうことを言っている人の記事ばかり見ているから嫌なのが当然だという認識になっているだけのようだ。

 そもそもなんで悪いのか自分では論理だてて説明できないし、巨視的に見たら自分だってどこかで聞いたような価値観を振りかざしてそれを持たない知り合いにマウントをとっているだけである。

 すべてのことについてそもそもなんで良いのか(あるいは悪いのか)をちょっとぐらい考えてからモノを言うようにしていかないと、文句をぶつけた相手とやってることが同じだなと思った。