2019年7月18日「surface使ってるしせっかくだからレイヤー機能とかがあるペイントソフト使いたい」
引っ越しのとき、もしかしたら読むかもしれないなと思って、教科書とか資料集とかを段ボールに詰めた。
最近間違えて身長ぐらいある本棚を買ったので、漫画とか小説だけではあまりにも余裕がありすぎる。
少しでも隙間を埋めるために教科書類も使おうと、一年と少しぶりにガムテープをはがした。
……ああ、そうだ。姉の持っていたドイツ語の参考書や、デザイン・芸術の本などを段ボールに忍ばせておいたのだった。
すっかり忘れていた。どうして入れた?
今日び、絵の一つでも描けないといろんな面で不利だろうなと思っていたんだったか。
漫画とかイラストとかでないと伝えきれないこともあると思ったりした覚えがある。
絵がうまいだけでよく見ると大したこと言ってない映画の紹介ツイートとかがウケてるのを見てスケベ心が働いたりしたのかもしれない。
(そんなにうまいこと行かないというのは、最近何となく理解してきたが)
せっかくだからデッサンの本でも読みながらいっちょ練習していきますかい。と思って開いてみる。しかし……。
やっぱり、一朝一夕で身につく技術でもあるまいなと、しみじみと思った次第です。
こういう能力、本を読むだけで次の日には身についてればいいのにな、みたいな意志に支配されている。
そういうの良くないよ、と理性にどうにか言わせているのだけど、何度線を引きなおしても見た通りにならないことに爆発しそうになる。
この、下手なうちの辛さを乗り越えられるものだけが絵ウマ村への切符を手に入れられるのだ。
自分が下手なことに気づく前に、いくらでも時間をかけて絵をかきまくる時間があればよかった?
能力とか需要とか、考えはじめる前にたくさんやることで下手さへの怒りを飛び越えて特技が生まれる。
あるいはそれを才能と呼ぶのか。
才能がないと言って絶望するときというのは、需要を満たすだけの能力がなく、それを克服しようにも努力がなかなか実らないときだ。
下手なことへの怒りが小さかったり、怒りを努力の方向へ向けることができるなど、絶望しにくいことを才能と定義できるだろう。
一方で、絶望とかと無縁の空間で鍛え上げることで生まれる才能もあると思われる。
小さいときとか本業の外で夢中でやるなど、だれに見せるでもなく趣味として続けていたりすることで、需要がどうだの基準を持たずにたくさん作品を作れる。
夢中でやるので次第にうまくなる。
誰かに見せたいなと思って活動を始めると、能力の低さに悩む前に上手になっているものだから、その分才能の無さで悩む時期は比較的おそくなる。
その、周りとのタイムラグも才能と呼べる。
とりあえずは義務感でやるのをやめよう。当然だけど勝負するにはあまりにも未熟なのだ。
ちょっと気に入らない部分があっても、とりあえず対象の全体像を最後まで時間をかけて描いてみよう。
絵だけの話ではないかもしれないな。