日記まがい

変わったことがあれば書きます

2019年7月8日「退屈という表現」

退屈な人生とはこういうことかと思うような日々が続いている。

必須の予定はたくさんあるのだけど、どうにもやる気が起きなくて後回しにしている。後回しにしつつもその予定がこちらを見つめているような感覚が常にあって、思い切って羽目を外してしまうのは封じられている。自分の無意識の中ではどうにも「羽目」の担当する範囲が大きく、海外旅行とかならまだしも、スポーツとか読書でさえ集中を阻害されていて、空いた時間にやりたいなと思っていることを全然始められない。

代わりにやることと言えばことごとくTwitterYouTubeなどの「浴びる娯楽」だ。ほとんど何の労力もなく笑えるが、そのあと自分の中に残るものといえば、あれもできた、これもできたと過去の自分を責め立てる材料だけなので、本当にやらないほうがいい。(しかし、思いながらもやる)

忙しさから目を背けていることに対して自ら罰を与えるかのように、少しでも労力の必要な趣味をそうでない趣味でぬりつぶしていった結果、余暇がすべて同系色でまとめられ、全体的に退屈なトーンに支配されているような、そういう日々を生きている私です。

退屈が行き過ぎて哲学的な思考に到達して、ステキなエッセイの一つでも書けるのならば退屈も悪くなく、人生のレールをそっちに切り替えてひねもすごろごろ寝っ転がって、よもすがらしこしこ文筆業に励むようになるだろう。本当にそういう才能があったらよかったんですけどね。

退屈っていうのは忙しさに関係なく変化のない生活を過ごしているときに感じるようだ。それを解消するために必要な変化は「新しい動画が上がった」みたいな与えられる変化だけでは不十分で、「動画を作ってみよう」みたいな自ら発生させる変化を含めたものらしくて、(いっそ死んでしまいたいと繰り返し言っている人でもワンパンマンの最新話を楽しみにしていたりする)今の自分に必要なのもそういうタイプの変化なのだろうなと考え付いた。

毎日寝るまでになんとか時間を作ってまとまった文章を書こうと思う。本当にしんどかったらツイートみたいな長さでもいいから書こう。そのうちネタが尽きてきて、自分から変化を求め始めて変なことをし始めるだろう。

それはそれでよくない兆候のようにも思えるが、まあ、今のどうしようもない状況よりはましだろう。

 

これまで何度か似たようなことを言っておきながらまったく続かなかったことには目をつぶって、しばらく続けます。