日記まがい

変わったことがあれば書きます

通帳ブルース

実家暮らしの大学生などは、親の扶養を受けながらも、各種家事手伝いをするなどして、ある程度の対価を支払うことができる。

しかし、実家から300キロぐらいはなれた土地に住んでいる私は、実家暮らしのそれを凌駕する援助を必要とし、それでいて親の肩をもんでやることすらできない。

「親子の愛は目に見えない」みたいなことをいうが、そういう目に見えない愛というのは、言葉なり行動なり、目に見える愛情表現を受けた時にさかのぼって生じるものだ。今のところ私がやっているのは、寄生である。長〜い触手。

 

普段はこういう事実からできるだけ目をそらしている。ただ、完全に無視することもできず、少し気を抜くと、それは突然襲い掛かる。

ATMで数万円おろしてふと通帳を見る。そこには、目に見えないはずの親の愛がしっかり数値化されており、そのまま質量を持って私のみぞおちに飛び込んでくる。

数百円の本や小物などをタダのように扱ったり、食費をいくらでも使っていいものだと思っているせいで、たびたび引きずり出される数万円単位の不孝が、同じくみぞおちに飛び込んでくる。

取り返しのつかないことをしているような気がして不安に思ったところで、買ったものをそのまま売っても半額にすらならない。ウェブ上のサービスなどに金を使おうものなら、永久に、一銭も返ってこなくなる。

「もうどうしようもないよね」と、一人の部屋で呟いて(文字通りの意味で)、本なりなんなりを、できるだけ丁寧に使い切ることにした。

まだ読んでない本が山ほどあるにもかかわらず、さらにもう一山買うので、読む前から胸焼けがしそうになる。ほとんどもとは親の金である。こんな恥知らず、自分じゃなかったらぶってるのにな。

 

親の監視から抜け出した時の衝撃で、金が無限にあると錯覚しているところがあったのかもしれない。「親元を離れて一人暮らし」につきまとう「貧しい」というベタなイメージがあるが、もれなく私もそうなのだ、と、今になって気付いた。

これからは無駄な出費を減らして、ある程度アルバイトもこなして、金銭的に少しの余裕をもって生きる。もうすぐ成人するのだから、人の形を成していこう。

 

腹が減ってきたが、このタイミングで外食など言語道断だ。そんなことしたら人間じゃなくてギャグだ。もちろんスーパーに向かう。人になるためのゴールはスーパーの方角にある。

なんだかお好み焼きの味が恋しくなったので、焼きそば用の麺と、キャベツを買って、そのまま肉売り場に向かう。

「どうせ違いなど分からないのだから、できるだけ安い食材を選ぼう。」と、値段だけ比べて取った安い豚肉が「モモ」で、取らなかった高いほうが「バラ」だったことに驚いた。バラは何となく語感から、いちばん安い部位だと思っていた。

家に帰って目分量で作った生地をフライパンに流し込んだら、三日分ぐらいのお好み焼きができてしまった。「そうか、平らな面に流せば当然面積も増えるよな。」と思った。

一年間も一人暮らししているのにこの体たらくだ。毎日が驚きの連続で、にぎやかなことですね。

 

私の親が、いかに私に家事を任せず、そしていかに私が家事をしようとしなかったかが浮き彫りになった。ふたたび親からの愛と、親への不孝が形になった。

どうやら人になるまでの道のりは、想像よりずっと遥かな道のりのようだ。愛と不孝を感じるごとに、より遠くなっていくように感じる。