日記まがい

変わったことがあれば書きます

努力について思ったことに思ったこと

一日一食どか食いして、その日はもう何も食べないつもりになったのに、深夜お腹が減って目を覚まして、米を炊いたりしている。それ以外は特に何もしていない。

どうにも全力になれないというか、無茶ができないというか、平均的なレベルの「必死な努力」すらできたことがない気がする。

今日はもう一夜漬けでテスト対策だ!とか、最近食べすぎだ、しばらくおやつ抜き!!とか、自分にちょっとした鎖を巻いてみることがよくあるのだけど、その鎖には鍵が付いてなくて、仕方なくちょうちょ結びにしているので、放っておいても勝手に解けてしまう。

一人暮らしで誰にも見られてないからかな、とふと思ったが、これは昔からずっとそうだったし、環境はあんまり関係ないなと打ち消す。

本当はやりたくないのにやらされてるからやる気が起きないのかなとも思ったが、やらねばならないことを先延ばしにしてやっているのはそんなに面白くもないことだったりするし、自分からやりたいと思ってお金を出したものを一向にやらなかったりもしていて、どういう仕組みでそうなってしまうのかさっぱりわからない。

本当に、一定時間ゲームなりマンガなりを続けているのを感知したら完全に電源が落ちて次の日まで使えなくなるスマホが欲しい。

通信機器は、通信だけの機能を持った別の端末を使うことにして、インターネットの機能は完全に分割して時限装置つきスマホの方に入れておいてほしい。

iPhoneに似たような機能があるが、それは一人で使っていても無視できるからダメだ。ペアレンタルコントロールには有効かもしれないが、それでは私を止められない。大人はずるいのだ。

受験シーズンはさすがに空気を読んでちょっとだけ真面目に過ごしていた。スマホを新聞紙とテープでぐるぐる巻きにして、ダンボールに詰めて父親に預けておいたので、二月までスマホを触ることはなくなった。

それでも逃げ道というのはあるもので、調べ物と称して家族共用のパソコンでWikipediaを見ていたり、使わなくなったタブレット端末を押入れから夜な夜な引っ張り出しておもしろフラッシュを見たりしていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%8F%8D%E9%A0%85%E7%9B%AE

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そんなこんなでヘラヘラしながら大学生になってしまったので、「血の滲むような努力をしたが、それでも届かなかった夢」みたいな話を聞いてもいまいち共感できない。

同じ大学のまだ別に大したことしてない同級生とかが深夜熱に浮かされてツイッターで過去編をやってたりすると「ウソつけ!!!!」という気分になる。(多分ウソでもなんでもないし、似たようなことを自分でやっててもその時は都合よく忘れているだけかもしれない)

 

私は、時間をかけて正しく努力すれば、案外誰だって、何にでもなれるよみたいな話をかなり、神話的に信じている。

私に内なる苦悩を告白してくれるような親密な人間がいないことや、自らが全然何にも一生懸命にできないカス人間であることが、その神話を不変なものにしているのだろうと思う。

 

 

以上のようなことを考えて書いた後、しばらくノートに寝かせておいた。数日のうちに考えが変わった。

どれだけ頑張ってもできなくて苦しかったという話に対して、なんでそうなるんだ、私だったら……。と考えていたとき。「私だったら」という考えを私は使いがちだけど、そんなの、私だったらその時間そこにいないに決まっているだろうと気づいた。

その人はなんやかんや色々あってその状況に陥って、それまでの人生経験の結果それにそう対応する性格になっていたのでそうしたのだ。

共感するかしないかは自由かもしれないけど、その人に何か言えるとしたら、絶対にネット上のちょっとした知り合いなんかじゃないし、FF外とかじゃ絶対ないし、もっと言えば、何か言ってもいい人なんて、どこにもいないのかもしれない。

血の滲むような努力をしたけど夢やぶれた人」は、その人の尺度でそうなのだから、そういう話をしているのが、身近な人ならゆっくり話を聞いてみるぐらいでいいし、知らない人なら音を立てないように距離をとればいいのかなーと思った。

他人の努力の話というのは、是でも非でもないものだ。攻略法なんてないのだ。

そして、私の努力神話もだれかに向けて発するべきではなくて、思うだけにとどめておくべきなのだ。私にとって都合のいいだけの話なのだから。