日記まがい

変わったことがあれば書きます

人の書いたものにいちゃもんをつける

 少し凝った書き方をしようと、日差しとか、風とか、そういう要素を交えながらブログを書いた。こういうの、書いているうちは楽しくて、小説家にでもなったつもりになるのだけど、書き終わってみると、時間の経過とともに羞恥心が膨れ上がっていく。そもそも書くのがあんまりうまくないので、見返すたびに分かりにくいところを見つけて背中がかゆくなる。成長したいものですね。

 最近まであんまり、熱心ではなかったのだけど、自分が文学部であることを気にして小説を読むようになって、好きな作家について何人か名前が思い浮かぶようになった。別に人前で言うような機会はないし、言ったとしても本当にその人の本ばっかり読んでる詳しい人が聞いたら嫌な顔をするような気がするので、あくまで頭の中に思い浮かべるだけにとどめているが……。

 やっぱり、そこにあるものをシンプルに書いたうえで、引き込まれるものが書ける人を尊敬する。技術を感じさせすぎるのは、文芸作品にとってマイナスなんじゃないかなと思う。もし自分が書くとしたら、やっぱりそういう書き方を目標にしたい。

 

 少し前、友達が一本小説を書いていた。あんまり知り合いが作ったものについていろいろ考えるのは苦手なのだけど、ちょっと自分の興味と近い分野なこともあり、読みながらいろいろと思ったことがあった。一応自分の今の文章の読み方のモデルとして書き残しておこうかな。読み方なんてどうせそのうち変わるのだから、成長の記録みたいなものだ。

 伝えたいことを作品に組み込むとき、その組み込んだ部分について、見る側がより深く知覚するのを促すために、持って回った表現をすることで知覚のプロセスに時間をかけさせる技術がある。「異化」という。

 「異化」はあらゆる芸術作品に様々な形で現れるが、文学ではそれが特に多彩だ。時間軸をずらしてみたり、視点を切り替えてみたりして、自動化されて読むスピードが上がっている読者の目を、狙ったところにとどまらせる。

 彼の作品は、この「異化」を、単語レベルで頭から終わりまでずっとやり続けているようだった。しかし、少々やりすぎなような気がした。読み方・意味が、辞書を引いて初めてわかるようなものすごい語彙ばかりでページが埋め尽くされていた。

 ストーリー以前を作品から取り除くことによって、登場人物の境遇を想像させるような構造的工夫を行ってはいるものの、もはやその程度のことは問題ではなく、ただただ難読単語の暴力にあおられて、語彙力に感心しつつも、次第に笑いがこみあげてくるような妙な感覚にさせる文章だった。

 一般的な表記でも構わないのではという単語も多かったし、その比喩はすこし誇張が大きいようだという表現も多く見受けられた。内容を抽出すると語彙に見合わず非常に素朴である。

 彼の書いたのは短編小説の部類だったが、この調子で何万字と書き始めたら、読者の脳が、話の理解とは別の理由で焼き切れると思う。もう少しパワーをおさえてみてはどうかと思う。

 あるいは、題に「習作」とあったので、この後語彙に見合うだけの壮大な一大叙事詩を書き上げてしまうつもりなのかもしれない。そうだったとしたら大失礼なことを言っているのかもしれない。ごめんなさいである。

 異化をしてやろうという気分など全くなく、難しい言葉を使うことが良い文章を書くことだと思ったのかもしれないし、あるいは普段からよく読む作家がそういう書き方なので、語彙世界がそういう単語群で構築されていて、小説を書こうとしたら自然とそうなってしまったのかもしれない。本当のところはよく分からない。

 ただ単に私が読書の理論とか作法のようなものを知らなくて、間違った読み方をしているのかもしれない。そうしたら彼がこんなことを言う私の無学を見て鼻で笑う可能性もある。そうだったら、嫌だな……。ただの素人であってくれ……。

 

 どうせ、見る人から見れば間違っている評論だと思う。あくまで成長の記録である。二年生からは日本文学を専攻する。文章の上達にはただ、書くことであるとどこかで聞いたので、恥を捨てて好き勝手に書こう。どうせ誰も見ちゃいない。