日記まがい

変わったことがあれば書きます

ルービックキューブ 解き方

実家のテレビ台に、ルービックキューブが1つ。

暇つぶし(より重要度の高い作業から目をそらす理由付けのことをそう呼んでいる)に6面全部そろえてみるかと思って、検索エンジンを起動。

検索窓に「ルービックキューブ」と入力すると、オートコンプリートが「解き方」と続けてくれる。検索結果の一番上、洗練されてない、汗臭いページを開く。

画素の少ない画面を見ながら、手順を一つ一つ踏んでいくと、10分ほどで完成した。

 

で、もう一度、今度は何も見ないでやれ、と言われても、世間の平均ほどもできないだろうなと思う。なぜならもともと世間の平均よりできないからである。

工程など一つも覚えていないし、ページに書かれた通りに作業を遂行していっただけであって、理解は一つもなかった。

途中の、何やらガチャガチャ複雑にこねくり回す工程というのは、おそらく2点を、それ以外の配列に影響することなく入れ替えるためのものだろうな、というような予測こそあるものの、なぜあれで入れ替わるのか、を考えたりしなかったのだ。

時間つぶしにはなったが、本当に時間をつぶしただけであった。昼寝したほうが自分のためになる。

 

実際、理屈を考えながら攻略して、何も見ないで揃えられるようになってみよう、という意識は、あった。

どうしてやらなかったのかと言えば、思ったより時間がかかりそうだな、と、これから自分が行うであろう努力に、やる前から辟易したからである。

集中力がない。たぶん人生における最重要パラメータであろう集中力の値が、ほとんど最低値に設定されて生まれてきた、そんな私だ。

 

小学生の頃の夏休みでは、ドリルは答えを見ながらこなし、自由研究は親にやらせていた。中・高では、誘惑を断ち切り成績を伸ばす成功体験を作りながらも、次のテスト期間には子ども返りしてやっぱり答えを見ながら課題を終わらせて、深夜までパワポケしていた。

集中することが可能であり、集中することによる利益について実感があるにもかかわらず、やっぱり集中しないことを選んでしまう。小学生の時に精神に打ち付けられた杭が今も残っていて、体が大きくなるたびにひずみを作っていく。

「私は小学生のころからこうだから」と、自己肯定という名の可能性の放棄を、大人になるたびに繰り返す。

「このままじゃだめだ」と叫んだところで、効果は二、三日が良いところだ。

まったく同じ内容を叫び続けると、次第に言葉の力は失われていく。

やせ細っていく私はこの先、脳を停止させたまま死んだように生きていくのだろう。

何十年が経過しようとも、ルービックキューブはそろわない____

 

と、暗いことを考えたのもつかの間、ちゃっかり、おいしいご飯を食べたり、おもしろいテレビ番組で笑ったりしている。

集中力のなさは「集中力のなさを嘆くこと」をはじめとした、自分との対話にも当然作用している。

成功して嬉しかったり、失敗して悲しかったり、その瞬間には感情が確かにあるものの、教訓が残らない人間です。

生きにくくは、ない性質だ。

生きにくさを嘆くことすら、長くは続かない。